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夜に出会った

by 中村菜月

夜。建物が一つ、また一つと、密やかな眠りを始めます。ぽつ、ぽつと明かりが消えました。一番深い場所、あなたは。

通りの猫が鳴きました。

静寂

あなたは、水の音。一番深い場所で、一番遠い夢、ぶくり

それは、記憶の向こう側

身体は毛布

あなたは、水の音。あなたの一番深い場所で、ぼくりぼくりと泡が鳴る。脊椎がふわふわになった

街灯は一人ぼっち

ぼくり、ぼくり

さっきまで考えていた、こと、忘れてしまった。

どこかの海でぽちゃり、イルカ

あなたは、水の音。

ぼくり、ぼくり

宇宙の秘密が、そっと囁きます。

「あなたを身体で括ったの。本当はね、本当はね、全部溶けて同じになってしまうわ。コップ一杯の水を注ぐように、あなたを身体で括ったの」

そうして、いつの間にか溶けました。

あなたの背中が、いつの間にか溶けました。

毛布の手触りに、世界の全てがありました。全てが、削除されてしまったのです。どこにもなくなってしまった。それは……

いつの間にかあなたは、まっ白くて明るい、音の無い場所になりました。

大きくてあたたかな白いいぬが、ゆったりと寝そべっています。ずうーー、すうーーという、深く、ゆっくりとした呼吸で眠っています。古ぼけたノートの上で、優しい色で眠ります。

ぼうん、ぼうん、ぼうん。

それは、船。遠い国からやってきた、大きな大きな船です。しゅうう、と煙をはきだし、ぎしみぎしみと船のあちこちを軋ませながら、こちらへ向かってきます。まるで幾つもの国を滅ぼしてきた様な、恐ろしい音を出します。白くて大きな煙が、あなたを包みます。大きくてあたたかな白いいぬは、片目を重たげに開き、そしてまた、ゆっくりと閉じました。

大きな大きな船は、ざぶざぶと波を創りながら、こちらへとやって来ます。近づけば近づくほど、小さな船になりました。小さな船は浜辺を創りだし、ずしん、と停まりました。しゅうう、と辺り一面に蒸気が立ち込め、つややかな空中に消えていきました。

「やれやれ」

ふいに声がしました。小さな船から、小さな小さな人間が降り立ちました。兵隊の様な姿をしています。

「何も無い。真っ白だ」

船からわらわらと人が出てきました。何十、何百もの人々が皆、先程の兵隊と全く同じ姿をしております。

「いいえ、そんな事はないでしょう。私達は何もない場所にいることはできないのですから」

兵隊の一人が、はっきりとした声で言いました。

すると、ほんの僅かに辺りが暗くなりました。

その時のことです。場所が姿を現しました。砂埃を被った石造りの家々が、所狭しと並んでいます。所々に、祈るように塔が建っています。神殿が佇むその向こうでは、街を包み込むように、大きくてあたたかな白いいぬがゆったりと寝そべっています。

「やはりここにあったか。眩い白が、全てを隠していたのだ。そして、何て大きな犬だろう。まるで山ではないか。私達の探し物は、あの犬が持っているに違いない」

兵隊達はぞろぞろと、大きくてあたたかな白いいぬの麓へと向かいました。幾つもの家々を通りすぎ、塔を仰ぎ、神殿を越えてゆきます。その間にも、ゆっくり、ゆっくりと少しずつ、辺りは暗くなっていきます。

「別のお客が近づいているね」

兵隊の一人が、声を潜めて仲間に言いました。「夜だよ」

街には誰もいません。家だと思っていた建物も、全て脱け殻の様です。そしてようやく、一行は大きくてあたたかな白いいぬの麓に集まりました。その腹の下には、古びたノートがあります。遠い遠い、時間の始まりのような古さです。そこには何やらびっしりと、数字が書いてあります。刻まれた数を覆い隠す様に、どっかりと寝そべっています。兵隊の一人がすうーっと深く息を吸い、叫びます。

「やあやあ、そこをおどきよ。夜が来るぞ、もうすぐ潮が満ちる。そうしたらそのノートも、お前も、水浸しだ!」

大きくてあたたかな白いいぬは、全く聞いていない様子で、ずうーー、すうーーという、深く、ゆっくりとした呼吸で眠っています。

「私達にはそのノートが必要なんだ。お前さんにとっては、ただ昼寝をするシーツの代わりかも知れんがね、世界中の国々にとって大切な物なんだよ。それを我々が預かるのだ、世界の為に」

兵隊達が何度呼び掛けても、大きくてあたたかな白いいぬはまったく気にしません。ずうーー、すうーーという、深く、ゆっくりとした呼吸で眠っています。

兵隊達は、どうしたものかと考え込みました。

「ところで」

一人が手を挙げます。

「ノートはどうやって運ぶのです?ここまでの道のりを思い返して下さい。あの大きさでは、この街を抜けられないでしょう」

「大丈夫ですよ」

一人が声を張り上げます。

「道を作ればよいのです。ここまでの光景を思い返してくださいな。人っこ一人、居やしなかった。忌々しい建造物を壊して、ここから船まで、真っ直ぐの道で繋いでやればいいのです」

そう言うと、近くの壁を蹴ってみせました。壁はガラリ、と崩れ落ち、真っ白な砂に還りました。

「おやまあ、こんなに簡単に崩れてしまうなんて。思いもよらなかった。ならば、やってしまおう!」

兵隊達が勢いよく腕を振り上げたその時です。街の様子がすうっと変わりました。音が止まったのです。その音というのも、消えるまで、あったことにすら気がつかぬ音でした。大きくてあたたかな白いいぬの、まるでこの街の風の様な、ずうーー、すうーーという深くゆっくりとした呼吸が、止まったのです。

兵隊達が振り返ると、大きくてあたたかな白いいぬが、ジロリ、と巨大な二つの眼を開いて、心の奥深くを突き刺す様な視線で兵隊達を捉えております。

どこまでも深い、藍色の瞳です。それは、全ての悲しみと、数えきれない程の憎しみと、苦悩、葛藤、恐怖、絶望、叫びでした。

兵隊達は、それらを全て想像してしまいました。ある者は泣き崩れ、ある者は叫び回り、ある者は声を出すことすらできずに倒れました。

大きくてあたたかな白いいぬは全ての兵隊が動けなくなった様を見届けると、再び、ずうーー、すうーーと深く、ゆっくりとした呼吸で眠りました。

暫くの時が経ち、兵隊達は目を覚ましました。辺りはより一層暗くなり、深い青に染まっています。痛む体をやっとの思いで立ち上げ、よろよろと、船に向かって歩き始めました。誰一人、言葉を交わそうとはしません。けれども、船を目指すということだけは皆が分かっておりました。そして何よりも、それぞれが生きているということを、心の奥深くの静かな場所で、誰もがそっと喜んでおりました。

船は、しゅうう、と煙をはきだし、ぎしみぎしみとあちこちを軋ませながら、街を離れていきます。まるで幾つもの国を滅ぼしてきた様な、恐ろしい音を出します。煙が街を包みます。大きくてあたたかな白いいぬは、片目を重たげに開き、そしてまた、ゆっくりと閉じました。

小さな船は、ざぶざぶと波を創りながら進んでいきます。街から離れれば離れる程、大きな大きな船になりました。そうして、遠くへ遠くへと去っていきました。

やがて、街にはまた静寂が訪れました。兵隊達の船が創りだした波が、ゆたり、ぴちゃりと静かに揺れております。月が、街の隅々をなぞります。静かに、静かに。海がどこまでも続いております。ゆたり、ぴちゃりという音を繰り返し、海は少しずつ街を浸し、いよいよ、大きくてあたたかな白いいぬの近くまでやってきました。けれども、まるで気にしません。ずうーー、すうーーという、深く、ゆっくりとした呼吸で眠っています。麓はいつの間にか、海岸になりました。

きこ、きこ、きこ、

小さな舟が、遠くの海から近づいてきます。街に近づけば近づく程、その小舟はより一層小さくなりました。

きこ、きこ、きこ、

小舟には、一匹の狐が乗っている様です。二本の腕で、ゆったりとオールを漕いでいます。海に浸かった建物の間を、ゆっくりゆっくり進んでいきます。

ことり

海岸に辿り着いた小舟から、狐が降り立ちました。狐は体によく馴染む柔らかい布でできた臙脂色のマントを纏って、二本の脚でたおやかに立ち、すくっと顔を上げました。大きくてあたたかな白いいぬが、聳えております。

「お客は人間たちと夜だと聞いていたけれど……君は夜ではないね」

大きくてあたたかな白いいぬは、そっと瞼を開き、言いました。

「私は探険狐のリリーです。この小舟とともに、私は旅をしています。海の続く限り、どこまでも」

リリーは、花びらのような軽やかさで話します。

「目的は?」

大きくてあたたかな白いいぬは、遠い昔の城の様に、ずっしりとした声で話します。

「私に目的などございません。私は私を、淡々と生きるのみです。出来事は全て、訪れては去っていく風景に過ぎないのです。月明かりの施した美しい彫刻に導かれ、あなたのもとに辿り着きました」

リリーは柔らかくお辞儀をすると、大きく澄んだ瞳で、古びたしわくちゃの大きなノートを捉えました。ノートにはリリーの体ほどある大きさの数字が、びっしりと刻まれています。

「ここは……墓場でしょうか?」

大きくてあたたかな白いいぬは、ゆっくりと頭を持ち上げます。

「ここは悲しみの終着点だよ。世界中の悲しみが、ここへやって来る。このノートには、その数が記してあるんだよ。それは全ての悲しみと、数えきれない程の憎しみと、苦悩、葛藤、恐怖、叫びだ。もうとっくに忘れ去られてしまったものもあれば、人々の記憶に深く深く刻み込まれたものもある。人々は、悲しみをでっちあげることだってある。けれども、このノートが真実なんだ……」

大きくてあたたかな白いいぬは、ぐうん、と体を伸ばしました。体も街も、すっかりと深い藍色に染まっております。月明かりになぞられて、その輪郭がぼんやりと白く光ります。すぐ近くの建物が一つ、崩れ落ちています。

「なるほど。なぜ、あそこだけ崩れているのです?」

リリーは何か分からないことがあれば、すぐに知ろうとします。

「先客が壊していったよ。人間たちだ。彼らは、世界の為にこのノートを持っていくと言った。きっと、ノートを書き換えようとしていたのだ。刻まれた数字を書き換えれば、世界の悲しみを変えられると思っているんだろう。けれども、悲しみの数を変えることは出来ないよ。私達は、悲しみと共にあるんだ」

リリーは少しだけ悲しそうな表情をし、ふさふさとした豊かな尾でノートを撫でました。

「ささやかな悲しみも、ちゃんと拾い上げられているのでしょうか。誰にも知られずに、ひっそりと涙を流した、コップ一杯にも満たないような悲しみも……」

「もちろんだよ、リリー」

大きくてあたたかな白いいぬは、世界で一番長く生きた樹の様に、逞しく、はっきりとした声で答えます。

「全ての悲しみがここへ辿り着き、安らかに眠る。その全てを見届けることが私の役割だ。変えることのできない悲しみの為に、ささやかな悲しみをありがとう、リリー」

リリーのささやかな悲しみは、いつの間にか、あたたかな感情に満たされました。

「世界は、少しずつやさしくなっている。それ以上の悲しみを越えて、少しずつ。まるで数えきれないほどの悲しみを、私はしっかりと数えているよ。安心して旅を続けなさい」

大きくてあたたかな白いいぬの言葉を聞くと、リリーは柔らかく微笑み、お辞儀をしました。

だぷん、ばしゃり

先程まで小さく揺れていた波が、俄に大きく揺れ始めました。みると、リリーの乗ってきた小舟の近くにぼんやりとした星灯りが浮かんでいます。その向こうにも、さらに向こうにも、星灯りがぽつり、またぽつりと浮かび、ゆっくりとこちらへ向かってきます。

「リリー、いよいよ夜がやってくるよ。全く、賑やかだなあ……」

大きくてあたたかな白いいぬは、やれやれといった様子で、けれどもにこやかに言いました。リリーには、言葉の意味がよくわかりませんでした。

「夜がやって来るって、どういうことです?もう既に……」

リリーの不思議は、遠くからやってくる摩訶不思議にかき消されました。

ガッシャン、コロリ、ピーリリ、トンカッタン、シュー、シュー、ランランラン

音が、無数の星灯りとパレードを引き連れてやってきます。

ザブーーーーーン、ずおーーーーーーん、ざっぶーーーーーーーん

ふいに、大きな大きな真っ黒い鯨が現れました。鯨の周りには、無数の流れ星が飛び交っております。シュッと輝く度に、鯨の黒くごつごつとした体が露になります。流れ星は勢いよく海に飛び込むと、水中で花火の様に爆発し、星灯りとなってぼんやりと浮かびます。

ザブーーーーーン、ずおーーーーーーん、ざっぶーーーーーーーん

大きな波が、リリーたちのもとへとやってきました。リリーは慌てて小舟に乗り込みました。がらん、ぐらん、と小舟が揺れます。大きくてあたたかな白いいぬは、リリーの乗った小舟をそっと引き寄せ、守りました。

「いよいよやって来たね、夜だよ」

夜の一行は、街の建物の一つ一つに星灯りを灯しながらぐんぐんと進み、やがて、大きくてあたたかな白いいぬたちの近くまでやってきました。

「やあ、ごきげんよう。元気だったかい?相変わらず、ノートとお昼寝かい。おやおや、見かけないお友達だ」

夜の鯨は不気味な微笑みで、大きな眼をぎょろりと細めて言いました。その声はどこまでも続く海原のように広く、深く、ゆったりとしています。

「やあ。お陰様だよ。それでも、さっきまで大変だったんだ。大した事ではないけどね。夜よ、お前達が近づいたせいで、街の姿が人間どもに見つかってしまった。けれども、リリーだってそうしなくちゃここに辿り着くことはなかった。リリーっていうのは、この見かけないお友達のことだよ」

大きくてあたたかな白いいぬがやさしく語りかけると、リリーは小舟の上ですくっと立ち上がり、夜の一行にお辞儀をしました。夜の鯨は不気味な微笑みで、大きな眼をぎょろりと細めました。これは夜の鯨なりの、心からの挨拶なのです。

「久しぶりにお前達に会えて嬉しいよ。久しぶりに、この街に夜が来た。お陰で、私の姿もこの街の姿も、見ることができる」

大きくてあたたかな白いいぬは、月明かりが照らし出す美しい街並みを眺めながら言いました。

「ああ……それはよかった。けれども、そんなに珍しいかい?我々がここへ来るときは何時だって、お前も街も、この深い青の中、月明かりを浴びてるじゃあないか」

夜の鯨は、いつもと何も変わらないこの街の様子を、不思議そうに眺めます。リリーも、やり取りを不思議そうに眺めておりましたが、はっと気が付き、言いました。

「夜よ、きっとあなたたち、朝を知らないんだ」

「朝?」

夜の鯨は、朝を知りませんでした。

「朝は全てに色を与えるんだ。それは、きっとあなたたちにはできない仕事だよ。あれ、でも、夜が来なければ、この街は全て真っ白になってしまう……」

リリーが言うと、大きくてあたたかな白いいぬは、ふわり、と笑いました。

「この街には、まだ朝なんてやつは来ていないよ。夜が来るだけなんだ」

夜が来るだけとは、どういうことでしょう。リリーには不思議でたまりません。

「そんな、そんなのちぐはぐでしょう。まるで、夢の中みたいなこと」

大きくてあたたかな白いいぬは、リリーを包み込みました。

「存在は、いつだって夢の中さ。いつだって不完全さ。けれども私達は存在している。それだけなんだ」

リリーは、少し分かったような表情をして、けれどもやっぱり分からなくて、何となく尻尾を抱きしめてしまいました。

「面白いじゃないか!」

夜の鯨はざぶざぶと波を立て、流れ星をびがびがと降らせました。

「私は、その朝とやらを探しにいくぞ。私達にはできない仕事だって?なんて素晴らしいのさ!私は朝に会いに行く。知らない事は知りたいし、持っていない物は手に入れたい。そうだろ?私はそういうタチなんだ」

夜の鯨は、辺り一面に星を灯し、ざぶうん、と波を立てました。

「出発するんだね」

大きくてあたたかな白いいぬは、ゆっくりと微笑みます。

「夜は、どこへ行くの?」

リリーは、夜の鯨にそっと触れるように言いました。

「遠くだよ」

「遠くって?」

「ここではない、というだけさ。リリー、一緒にどうだ。素晴らしい朝を探しに!」

海一杯の星に照らされて、夜の鯨は煌々と輝いております。リリーは大きな瞳にその光景を映しながら、柔らかく答えます。

「私は探険狐のリリーです。この小舟と共に、私は旅をしています。海の続く限り、どこまでも。そして、私は目的を持ちません。私は私を淡々と生きるのみです。だから私は、朝を追いません。出来事は、訪れては去っていく風景に過ぎない。けれども、」

リリーは、星灯りをそっと掬い上げました。

「けれども、この夢のような世界に存在する限り、私達の声は風となり、波となり、お互いを呼び合うことでしょう。この生命のさなかに、きっとまたお会いしましょう」

そう言うと、リリーは星灯りをぎゅっと抱き締め、そっと海に還しました。

夜の鯨は、ざぶざぶと流れ星と戯れ、ぐずうう、と微笑みます。

「それではお別れだね、リリー。そして、悲しみの番人よ、また会おう!」

夜の鯨は、ざっぶーーんと身を翻します。土砂降りの様な水飛沫が、流れ星と供に降り注ぎます。

「達者で、何度目の夜だろう。また会おう!」

大きくてあたたかな白いいぬは、夜をしっかりと見つめました。

ザブーーーーーン、ずおーーーーーーん、ざっぶーーーーーーーん

ガッシャン、コロリ、ピーリリ、トンカッタン、シュー、シュー、ランランラン

夜の一行はチカチカと星を降らせます。不思議な音と共にざぶざぶと波を引き連れ、遠くへ、遠くへと続いて行きます。だぷん、ばしゃり、と揺らぎっていた黒い波は、ゆたり、ぴちゃり、と次第に静寂を取り戻していきました。月明かりが、ただ静かにその情景を映します。

ぽちゃり

小さな星灯りが、一つ。

「夜の数は、数えていないのですね」

リリーは星灯りを掬い上げると、そっと抱き締めて言いました。

「夜は何時だって未来へ向かっている。未来は希望に満ちているんだよ、リリー。満ちているものは、数えることができないんだ」

大きくてあたたかな白いいぬは、夜の行き先をじっと見つめております。

「リリー、夜の余韻が過ぎ去れば、ここは真っ白な場所に戻ってしまう。その頃には、海も失われる。お前も出発の時間だよ」

リリーは星灯りをぎゅっと抱き締め、小舟にそっと乗せました。そして、大きくてあたたかな白いいぬの鼻先を、優しく包み込みます。

「悲しみの番人よ、ありがとう。ここはきっと、夢の彼方だ。私はあなたに会う方法を、その道標を、きっと忘れてしまうよ。けれども、ありがとう。素晴らしい風景よ。そしてあなたの記憶は、間違いなく存在だ。また会いましょう、生命のさなかに」

リリーは二本の腕でしっかりとオールを掴むと、きこ、きこ、と漕ぎ出しました。

「私はお前の悲しみも、しっかりと見ているよ、リリー。それさえ覚えていてくれたら、大丈夫だよ、お前はどこへでも行ける。さあ、行っておいで」

大きくてあたたかな白いいぬは、豊かな微笑みをリリーに託します。進み出した小舟を、そっと押しました。ゆたり、ぴちゃりと揺れる波間に、小舟は布を断つようにすっと進みます。小舟に載せられた小さな星灯りに照らされて、リリーはふんわりと手を降りました。やがて、小舟は小さく小さく、見えなくなりました。

街は、本当の静寂に包まれます。波が姿を消しました。月明かりは、そっと灯しを断ちました。暗闇が、永遠の白を取り戻します。街は現象をやめ、再び眠りに落ちていきます。大きくてあたたかな白いいぬはすべてを見届けると、どこまでも深い夜のようなあくびを一つ。息を吸って、吐くようなはやさの風を纏い、ずうーー、すうーーと眠ります。穏やかに、穏やかに。そう、すべては白になりました。それは、一番深い場所。それは、一番遠い夢、ぶくり

それは、記憶の向こう側

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