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逃げ水

by 中村菜月

  「逃げ水を捕まえにいかない? 」

   彼女は不思議な誘い方をする。

  「掃除の時間」が始まると、彼女は床のタイルをひとつ選び、その一枚を丁寧に丁寧に、たったの一枚をただひたすらに拭いていた。僕はそれをやる気がないと捉えるべきか、熱心だと捉えるべきかと考えながら教室の端から雑巾をかけはじめ、いよいよ彼女の目の前に到達した。

 「……丁寧だね。」

   この掃除において、僕にはそれが欠けていた。けれども、この掃除を成立させるために、僕は丁寧さを欠いている必要があった。彼女に磨かれることのない、残りの全てのタイルたちのために……

  「ねえ」

    彼女はすれ違う僕から器用に上靴を脱がせ、僕を止めた。 

  「逃げ水を捕まえにいかない?授業が終わったら、一緒にいこ。駐輪場で待ち合わせね」

   彼女は不思議な誘い方をする。僕は雑巾と床を押す腕に体重を載せたまま、理由なく彼女の体操服の刺繍を見つめる。逃げ水とは何か。その上靴、におってないか。

「う、上靴を」

「ねえ、いい?捕まえにいってくれる? 」

  彼女は僕の上靴の底を丁寧に磨きはじめる。

「いいよ、いいけど、逃げ水って何? 」

「逃げちゃうんだよ、どうしても。」

  彼女は大切なタイルに磨き上げた上靴をそっと置き、後でね、と去る。

  魚の骨。互いにハンドルを絡ませタイヤを絡ませ、いびつに連なる自転車の群を眺めると、何となく、上手に取り除けなかった焼き魚の骨を思い出す。けれども、夏の日射しを銀色に白く弾き飛ばす大量の自転車は、噛んだときに少しだけ苦い味がする生しらすみたいだといつも思う。

  やっとほどけた僕の自転車に、彼女はやわらかく荷物を載せた。

「わたしが漕ぐね、後ろに乗ってよ」

「えっ、二人乗り ? 二人乗りはちょっと」

「逃げ水が逃げちゃう」

  ガチッとペダルを踏み込む彼女に驚いて、僕は荷台に乗ってしまった。何これ。何これ?  ゆらゆらと自転車が動き出す。彼女の髪が少しだけ僕に触れる。人が近い。恥ずかしくなって、左手の甲を鼻に押しあてた。気温を忘れた。振動が、頼り無い荷台を伝って僕を揺らす。無力。僕は今、彼女に頼るだけ。

  触れたい。

「いたよ、逃げ水 ! 」

  ぎゅっと自転車が止まった。騒音。行き交う自動車が音という音をかき混ぜてはアスファルトにぶち撒けている。斑の街が沸き立ち、揺れたり滲んだりしている、陽炎だ。

「そっか、逃げ水って、陽炎のことを言っていたんだね 」

  彼女はじっと僕を見た。水中のような静けさがある。

「陽炎じゃあ、捕まえられないよ。」

  僕は息継ぎをするように喋る。彼女は少しだけ不思議そうな顔をして、不思議、と笑った。彼女は、水の中で聴こえる美しい音に似てる。

   しばらく陽炎を眺めていた。すっと線を引くように自動車を映す。ぐらぐらと街を含んでは、消える。本当には存在しない消えゆくものたち、消えるために存在しなければならないものたち。

  出来事は目の前で消えてゆく。僕はこの一瞬でさえ捕まえておくことが出来ない。たった今通りすぎた自動車の色も曖昧だ。彼女と逃げ水を捕まえに行く、この記憶が僕と彼女から消えてしまえば、この事実はどこにも無くなってしまうのだろうか。僕達はまるで陽炎。

「そろそろ帰る時間。」

  彼女は僕をじっと見た。あれ、と指す向こうからバスが来る。彼女はありがとう、と言って荷物をやわらかく持ち、去る。

   僕はしばらく、彼女とのことを思い出していた。消えないように、消えないように。どうしても逃げてしまうんだ、彼女は逃げ水。

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