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穏やかな地獄に守られていた

by 中村菜月

  視線を動かすことそのものが罪のように感じられた。私は身体を硬直させたまま、通り過ぎる腕だけを見ていた。この空間には同い年の人間が三十人もいる。異様。誰もが、一人にならないように会話を擦り合わせているようだ。私は一人、机に突っ伏していた。私には、それぞれの話していることが分からないのだ。

  指先で触れた消ゴムが、指の腹を刺した。見ると、シャープペンシルの芯が無数に刺し込まれている。誰かがいつの間にか私の筆入れを漁り、そのようにしたのだ。敵。この教室には敵がいる。けれども、姿が見えない。誰にも悪口を言われない。噂も聞かない。叩いてくるような人もいない。あるのは視線だけ、ずっと私を、監視している。

  帰ろう。静まり返った廊下をひたひたと歩く。区切られた空間の一つ一つから、黒板を弾くチョークの音や教師の声、生徒の小言が漏れる。ここにいる人々は、区切られた内部でしか出来事をつくれない。薄いガラスのショーケースに入れられたおびただしい数のトロフィーが、暗がりで鈍く重く光る。全て他人。

   靴を引き出すと、重たかった。中には校庭の砂がぎっしりと詰め込まれていた。敵。また、見えない敵だ。消ゴムにせよ靴にせよ、丁寧にやり込まれている。抜かりがない。相当の恨みがあるのだろう。

  ぐしゃぐしゃに積み重なった新聞紙の束の間にそっとうずくまった。ここが私の家。見渡す限りの、ゴミ。このゴミは昨日、母親と喧嘩になって怒り狂った父親がぶちまけた。私は静かに片付けをした。勉強をしたいけれど、机がない。学校を休んでいる間にみんなが書けるようになっていた漢字の「行」と「作」が似ていて、覚えられない。仕方なく、その辺りにあった箱と板を積み重ねて机にした。

   夜になると、この空間の中で両親が落ち合う。毎日毎日、この「家」という空間にやって来る。私はそれぞれの機嫌を損ねないように、学校での楽しい話をした。喧嘩の兆し。私は一所懸命に二人を楽しませ、気を逸らそうとした。駄目だった。母親は箸で父親を刺したし、父親は力で母親をはね飛ばした。片付けたばかりの部屋はゴミまみれになった。 ゴミにまみれた部屋の片隅で、私は震えながら泣いていた。両親に気付かれないように静かに泣いた。ごみ溜めの中でビー玉を見つけた。少しだけ霞んでいる。好きな男の子から貰ったビー玉だった。彼はそれを口にいれて、飴玉のように舐めていた。みんなが彼を気持ち悪がった。私もそれは気持ち悪いと思ったから、洗ったらちょーだい、と言って、そのように貰ったのだ。私はそれを筆入れにしまった。誰も私を叩かない。悪く言ってくる人もいない。自分は恵まれている。そのように幸福に包まれて眠った。   

   

  朝。タイヤが、乾いた地面の上を滑る音がする。晴れだ。晴れの日は嫌いだ、昼休みにドッジボールをしなければならないから。私は口に物を詰め込み、飲み込む動作を繰り返しては、嗚咽を起こしていた。もう食べられません。そう言っても、完食をするまで登校は許されなかった。仕方がないので、学校についたら吐くことにする。      私は晴れという天気を心の底から恨みながら歩いた。すれ違ったおじいさんに挨拶をした。

  「お天道さんが照っているねえ、ありがたいねえ、畑の野菜がよく育ちます」

   私はびっくりしていた。そうか、私はこんなにも晴れを憎んでいたけれど、世の中には晴れが嬉しくて仕方がない人もいるのだ。晴れの日を恨むのは、もうやめよう、苦しくても、このおじいさんがきっと喜んでいることを思いだそう。

   登校すると、速やかに朝食を吐いた。いつものように吐いた。

  授業中、そっと教室を見渡した。誰も私のことを見ていなかった。なんて穏やかで、平和な時間だろう。窓の外を眺める。同じように穏やかだ。大きく開いた窓は、ここと外とをかろうじて繋いでいるようだ。外には、ここ以外の全てがある。私は筆入れからビー玉を取り出し、ビー玉越しに窓の外を覗き込んだ。少しだけ霞んでいる。けれども、世界は美しいと信じてみる。

   

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