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それは彼女の部屋で二人

by 中村菜月

「あなたが愛しているのは私ではないし、私が愛しているのもあなたではない。」

  彼女はベッドの中で私を抱きしめ、私の視界を奪ったまま、耳元でそのように言った。それは全くその通りであり、更に、私と彼女のそれぞれに異なる恋人がいることとも、それは全く無関係な話であった。

  彼女はゆっくりと腕をほどいた。薄い暗やみの中で、月明かりが淡く彼女の輪郭をなぞった。もう何度も何度もみた顔だ。瞬きの速度も、唇の感触も誰よりも知っている、顔。

 

 彼女に出会ったのは、もう九年も前だろう。私は大学生で、一人暮らしをしていて、寂しくて、何となく、同じくらいに寂しそうな彼女が何だか調度よくて部屋に誘った。それから彼女は何となく部屋に寄りついて、たまにいなくなったりもして、それでもあの部屋は「二人の」居場所だった。

   ある時、「何となく」が恋愛に変わった。別に、決定的な何かがあったわけではない。それでも、彼女のいない生活が、有り得なくなったのだ。今となっては古くなったスニーカーも、もう何年も使っているティーポットも、懐かしい音楽も、まだ全てが新しかったとき、そして徐々に私の一部になっていく場面の一つ一つに、彼女がいたのだ。彼女は私の断片であり、私が私としてあるためのそのものであった。私は彼女を心の底から愛した。彼女のとる行動も、私と同様であるように思えた。彼女も、私を心の底から愛してくれたのだ。

   

  それが、どうしてこうなったのだろう。私たちは 就職を機に引っ越しをした。二人の関係性を作り上げた部屋は消滅し、彼女と私だけが残った。私は社員寮に入り、彼女は一人暮らしを始めた。「居場所」を失った私たちはそれぞれの愛し方を忘れてしまった。外出を好まない彼女との関係は、あの部屋にしかなかったのだ。

  私たちは時々、彼女の部屋でぎこちなく過ごした。いつの間にか恋人ができた。けれども、私と彼女との関係は、愛し方を忘れたまま続いていた。付き合おうとか、そういう、高校生みたいな口約束を交わすこともしないまま暮らした私たちは、別れようとか、そういう終わらせ方で終われるような何かではないのだ。そして、私たちはもう恋人でもない。もともと友達だったわけでもない。私と彼女は、私と彼女でしかない。それでも私は、彼女を愛していた時間よりも彼女の愛し方を忘れてしまった時間の方が長くなっていることに、とてつもない苦しみを抱えていた。

 暗がりのなかで、 彼女は不意に私の髪を優しく撫でた。私はゆっくりと彼女にキスをした。抱き締めたり、指を絡ませあったり、首を強く押さえつけたりしながら、何度も何度もキスをした。愛しているわけじゃない。苦しいのだ、私が愛しているのはこの彼女ではなくあの頃の彼女だということ、彼女が愛しているのは私ではなく、あの頃の私だということ、そしてその愛を消せないこと、越えられないことが、苦しい。

  愛し合うことができたら、どれだけ楽だろう。私たちはどうして二人でいるのだろう。このような年頃の男女が、理由もなく、名付けられる関係も持たずにただ二人でいることは、どういうことなのだろうか。

  私は弱った彼女を見ていた。会うことをやめ連絡も断てば、私たちは何でもなくなるのだろうか。けれども、それはきっとできない。できないからこうして二人でいるのだ。彼女を失うことは、ある私を失うことだ。私を私として構築する過程にすっかりと組み込まれた彼女を取り除くことは不可能だろう。そして、彼女を愛することで世界の隅々まで愛せたようなあの時間が確かにあった、その事実の象徴として、私は彼女を失えない。

  「結婚しよう。」

  愛しているわけじゃない。恋人もいる。けれども、離れられないのであれば、いっそ括ってしまおう。理由もなくいるこの二人に、何らかの理由をつけよう。なんて、残酷なのだろう。

  「仕方ないね。」

  彼女は力なく笑って、気だるそうに、そのまま眠った。私はその顔を何となく、理由もなく眺めていた。

  

  

   

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